■感情を整える ここ一番で負けない心の磨き方 -PHP研究所-
感覚がニュートラルな領域に入ったとき、人には常識を超えた強さが出てくる。怒りの根っこにあるものは「不安」
辛いとき、悲しいときは、
苦しくてもそこから逃れようとせず、
その感情に寄りそうようにしたほうがいい。
感情というのは一つのところにとどまっていないので、
いつまでも辛いとか、
いつまでも悲しいということはありえない。
辛いときでも悲しいときでも、
正面から向かい合ったほうが自然な変化を感情に起こし、
早く辛い状態から抜け出ることができるのだ。
私自身はある面、
ネガティブ思考の人間である。
by. 桜井章一氏
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なぜなら、私は前向きでなく、
後ろ向きの姿勢でいつもいたいと思っているからだ。
人間は前に進むことが絶対にいいことだと思って、
科学や経済を発展させてきた。
だが、そのことによる弊害は環境問題や心の問題をみればわかるように、
いまや無視できないほど大きくなってしまった。
これ以上、人間が迷わないためには、
私は人が自然に寄りそって生きていた時代の方へ後ろ向きに戻っていったほうがいいと考えている。
by. 桜井章一氏
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感情を縦軸、横軸のある座標空間で表すとすれば、
プラスでもマイナスでもないゼロの場所がある。
もし、単純に喜びと悲しみ、
希望と絶望、
確信と不安といった、
相反する感情のそれぞれの真ん中をとったものであれば、
そこは喜びと悲しみ、
希望と絶望、
確信と不安が入り混じった場所でもあり、
感情そのものが起こらない場所とはいえないだろう。
おそらく何の感情も起きない場所とは、
感情を表す座標空間の中心だ。
そこは、まったく純粋な感覚の領域といっていいかもしれない。
by. 桜井章一氏
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ポルトガル語でサウダージという言葉がある。
郷愁、憧れ、切なさ、思慕などさまざまな意味合いをもつ。
楽しく無邪気だった子ども時代への郷愁、
追い求めてかなわない憧れ、
二度と戻ってこない愛着あるものへの切ない気持ちなど、
一言ではいえない複雑な感情を表現しており、
他の国の言葉に翻訳することはできない。
とらえどころのない複雑な感情が合わさったサウダージには、
はっきり座標空間上でここという点はありえない。
もしどこかに置くとすれば、
それこそゼロの近くになるかもしれない。
by. 桜井章一氏
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サウダージははっきりした輪郭をもたない、
空気のようにつかみどころのない不思議な感情だ。
フワッとしたその感情には、
力みというものがまったく感じられない。
こうした力みが入った感情から力みを抜いた感情こそ、
ゼロのゾーンの近くにくるといえるのではないだろうか。
マイナスの感情でもそこから力みを抜けば、
気持ちがマイナスに引っ張られなくなる。
by. 桜井章一氏
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思えば私が麻雀で真剣な勝負をしていたときは、
そこにはっきりとした感情らしきものは動いていなかった。
勝負の前には「もしかしたら負けるかもしれない」
という怖れに近い感情が芽生えることもあったが、
いざ勝負に入るとそんな不安も、
そして「勝とう」という気持ちも一切なくなっていた。
かといって感情がまったく起こっていないというわけではなかった。
そこにあったのはニュートラルとしかいいようのない感覚であり、
それに付随する感情は「感情であって感情でない」不思議なものであった。
by. 桜井章一氏
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感情らしい感情はほとんどなく、
ただ緊迫感のあるなかで感情を超えた何かがちらちらうごめいていた。
このニュートラルな感覚こそ、
ゼロそのものといってよい感情かもしれない。
ニュートラルな感覚の領域には、
喜びも怒りも哀しみも楽しみも一切の感情が消えているようで、
同時にすべての感情の芽が含まれているような不思議さがある。
ただ、たしかにいえることは、
感覚がニュートラルな領域に入ったとき、
人には常識を超えた強さが出てくるということだ。
by. 桜井章一氏
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怒りの根っこにあるものは「不安」だと思う。
「瞬間は愛なり」ということを私はよく口にするが、
「瞬間に感じて動く」ことはとても大切なことなのだ。
理性を働かせて、
いつも考えてから動くタイプの人のほうが、
今の時代は圧倒的に多いだろうが、
考えていては間に合わないことがたくさん出てくる。
怒りはその場で感じて出さなければ後でどんどん大きくなる。
by. 桜井章一氏
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理性でなく、
ふだん感情を動かしている人であれば、
その瞬間に怒りを感じてその場で発散させるだろう。
ただ、怒りの感情をその場で感じて出すには、
日頃から感情を出すことをしていないとできない相談である。
理性は人の行動を可能な限り、
合理的にするように思える。
だがそれに偏りすぎると、
かえって不合理な結果を招くのだ。
by. 桜井章一氏
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怒っている自分に対するとらえ方を、
ずらしてみるのも一つのやり方だ。
人はみな自尊心というものをもっているがゆえに、
自分のことが一番正しいと思っている生き物である。
意識的、無意識的に絶えず自分のことを正当化しないと生きていけない生き物なのだ。
そうすると自分が怒っているのは絶対的なことだろうか、
相手のしたことにも少しは理があるのではないか、
そう考えることができる。
by. 桜井章一氏
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そうやって俯瞰したアングルで自分と相手を眺めると、
怒りで沸々とした感情も少しはやわらぐかもしれない。
それは相手を可哀そうな人間だと思う。
こんな態度や行動しかとれないのは、
この人が生まれ育った環境に問題があったのだ、
親からひどく押さえつけられたり、
いろいろな辛い目に遭ったからこそ、
自分勝手な考え方しかできなくなったり、
人に嫌な思いをさせても平気なねじれた性格になったのだ……
そう考えると、
相手も被害者なんだとどこかで納得するのである。
by. 桜井章一氏
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こうやって怒りの対象である相手を相対化してみたり、
憐れんでみたりというのは多少の効果はもっている。
もっとも大切なのは、
変化という観点から怒りの感情もとらえることだろう。
この世にあるものの一切は変化して止まない。
同じ状態でとどまっているものは何一つない。
怒りの感情はやがて別の感情に変化するし、
怒っている本人も相手も変化していく。
by. 桜井章一氏
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そんな無常観のなかで怒りというものをとらえるのだ。
「怒りの感情をたぎらせた山田A」は、
その瞬間にだけ存在していたのであり、
二度とこの世に存在することはない。
そういう感覚で自分のことをとらえると、
スッと楽になる瞬間があるはずだ。
これは考えるというよりは、
感覚的に「あのとき怒っていた私(僕)はもうこの世にいないんだ」と感じることがポイントである。
by. 桜井章一氏
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怒りを武器にしている人間には、
それ以上の怒りをぶつけてやればいいのだ。
怒りを出すことで自分のほうが上だぞとアピールしてくるような相手には、
そんなもの「屁でもないよ」という態度を示すのが効果的なのだ。
「他には通じてもこっちには通じないよ」
ということをはっきり示してもいいし、
そんなことでいちいち怒りをぶつけてくるなんて、
「あんたも小さいね」ということをそれとなくいってあげてもいいだろう。
そのとき相手は逆ギレするかもしれないが、
「あなたのその怒り方は負けだよ」ということが伝われば、
相手の態度はきっと変わるはずだ。
by. 桜井章一氏
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