■桜井章一の「ぶれない生き方」 -PHP研究所-
どうせ勝つのなら真の勝ちをしろ、どうせ負けるのなら真の負けをしろ。しかし、理想である以上、それが正しいことだとわかっているはずなのです
雀鬼流麻雀を野球の投手にたとえるなら、
「一番打ちやすい、いい球を投げてやれ」
ということです。
変化球はいけません。
メージャーリーグの場合、直球主体で勝負します。
日本の投手はなかなか直球で勝負しません。
相手が打ちやすいきちんとした球を真ん中に投げてやって、
正々堂々と戦って、
それで打たれるのなら、
まだ実力がないということです。
by. 桜井章一氏
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けれども、人が打ちにくい、
変化球を投げろ、
というのがいまの世間のやり方なのです。
このような変化球やテクニックに頼っているうちは、
いつまでたっても真の実力は身につかない。
雀鬼会の麻雀は、自力本願。
自分でツモって和了るのです。
ツモ第一主義。
by. 桜井章一氏
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最後の一牌までそれを信じ、
他人の力を借りようとはしません。
雀鬼会では、「どうせ勝つのなら真の勝ちをしろ、どうせ負けるのなら真の負けをしろ」
「内容こそが最も大切で、勝った負けたは二の次だ」
と教えています。
要するに、自力本願の麻雀でなければならない。
他力ではいけないということです。
雀鬼会の選手たちは、
内容のある真の勝ちと実力を求めて、
本戦以外にも自主的に勉強会を開き、
討論、打ち込み、研究を行ない、
お互いに悪いところを手直しし合っています。
by. 桜井章一氏
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その勉強会は、深夜に及ぶこともあります。
一人ひとりが真剣に取り組み、
また、内容のある麻雀を打つことを願っていなければ、
決してできることではありません。
各参加者は、個人の力量アップなどという狭了見ではなく、
他の打ち手のためにも日夜精進しているのです。
四人全員の足並みが揃ってこそ、
はじめて味が出てくるものなのです。
by. 桜井章一氏
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自分よりレベル的に上の人か、
少なくとも自分と同程度レベルの相手と練習しないかぎりは、
本当の意味での内容のある練習にはならないはずなのです。
お互いの実力をレベルアップさせるためにも、
お互い質のいい練習相手が必要だということです。
多くの人たちは考え違いをしているようですが、
いいライバルがいるということは、
喜ぶべきことなのです。
日々、自分で自分を叱咤激励することは、
とても困難。
by. 桜井章一氏
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だから雀鬼会では、いいライバルづくりを心掛けているのです。
ただ己を向上させることだけではなく、
真剣に戦い合うために、己の、
そしてライバルの雀力をアップさせなければいけないのです。
どんな手段を使ってでも勝とうとすることより、
内容正しき麻雀をすることのほうがよほど困難なことだし、
価値があるのです。
それなのに、人は正しいほうを捨てて、
楽な道を選んでしまっているのです。
by. 桜井章一氏
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男の友情とか、思いやりとか、
義とか、意志とか、
そういうものが麻雀の中に出てこなければ、
雀鬼会とはいえません。
数字の戦いではなく、いい絵を、
感情豊かないい作品を卓上に描くのが、
雀鬼会の麻雀です。
自分の力で勝ち取ったものもあれば、
たいした努力もなしに、
たまたま勝てたケースもある。
努力を伴わない勝利の行く末は、
親の遺産を食い潰して生きる道楽息子が辿る道に似ています。
by. 桜井章一氏
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むかし、朝まで負け続けた男が、
朝まで勝ち続けた私にポツリと本音を吐きました。
「桜井さん、なんで君はそこまで勝てるのだろう?
俺もみんなも、勝ち方がわからない」
いまほど多弁ではなかった私は、
「それは私にもわからない。たぶん、正反対の…」
と言って、言葉を切ってしまいました。
その男というのは、
『麻雀放浪記』の大ヒットで知られる、
作家の阿佐田哲也氏です。
by. 桜井章一氏
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阿佐田氏は、こんなことを言っていました。
「お互い知識や技術に大差がない以上、ポイントは心理作戦にある。
麻雀は自然を尊ばない。
あくまでも人工的なゲームなのだ」
また、こうも言っていました。
「麻雀は化かし合いと騙し合いのゲーム。
どうやって相手を陥れるかが勝負のコツである」
by. 桜井章一氏
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しかし、これは世間の価値観にしたがった必勝法であり、
決して麻雀の本質をとらえたものなどではありません。
人間の内面にひそむ心の弱さ、悪さ、
ズルさをそのまま麻雀に取り込んだにすぎないのです。
彼の教えは、まさに、
世俗の知恵にたけた大人たちの思考そのものといえます。
麻雀はメンタルなものであるとか、
麻雀は人生そのものだとか、
麻雀で人の性格や本性がよくわかると言われてきたのは、
きっと人の世というものが、
そんな価値観で成り立っているからなのでしょう。
by. 桜井章一氏
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人のもつ弱さがこういった論理に頼ろうとする心理を生み出すことは、
むかしからよく知られています。
「人間は、自然界から本質を倣うべきである。
人工的・人為的なものなど、自然の前では一瞬のうちに崩れさってしまう」
「麻雀も人生も、隠そうとしてはいけない。
さらけ出すべきだ」
「ときには敵に対して救いの手を差し伸べ、助け合うことも必要だ」
by. 桜井章一氏
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つまり、阿佐田氏が説く論理とはまったく正反対のところに、
麻雀の本質があるような気がしていたのです。
しかし、理想である以上、
それが正しいことだとわかっているはずなのです。
「そうは言っても……」と、
たいていの人は尻込みして、
己の住む現実世界に引き戻されてしまうようですが、
どんなに厳しくても、
理想を追求すべきなのです。
正しい麻雀を追求していくことは、
とてもつらいことです。
by. 桜井章一氏
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ですが、そのつらい困難な壁を一つ乗り越えさえすれば、
最初から楽な打ち方をしている人とは次元の異なる、
真に楽な境地に到達することが可能になるのです。
満貫を振っても、
「この振りは、いつの日か必ず強さとなって返ってくるんだ」
という考えを持った振り込みにしなければ、
本当の強さはついてこないのです。
「あそこで振らなければよかった」
「ああ、あのときこうしていたら……」
などという、「レバ・タラ」を言っている者は、
いつもそのレバ・タラのレバー程度で終わってしまうのです。
和了りと振り込みで成り立っている以上、
和了りだけを求めるのはまったく困難なことで、
そんな勝手が通るわけはありません。
by. 桜井章一氏
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人生も、チャンスとピンチが、
幸福と不幸が交互にやってくるわけです。
それなのに、チャンスだけ、幸福だけ、
楽しいことだけを追い求めてしまっている。
苦しいこと、つらいこと、困難なこと、
トラブルから逃げてばかりいては、
いつまでたっても前進することなどできないし、
度胸や勇気などという心の力は身につかないのです。
失敗のない人生など考えられません。
振り込みのない麻雀もありません。
by. 桜井章一氏
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