俗にいう”奇跡”とは、その現象がかなり低い確率で起こるだけのことであって、それ以上でも、それ以下でもない。流れに乗るまでは自分の力なのだが、それ以降は自分以外の力によるところが大きい

■神頼みを捨てる思考力 ~心の弱さを克服する、雀鬼流「裏」聖書~ -ワニブックス-

俗にいう”奇跡”とは、その現象がかなり低い確率で起こるだけのことであって、それ以上でも、それ以下でもない。流れに乗るまでは自分の力なのだが、それ以降は自分以外の力によるところが大きい

権力者たちは自分の企みを実現するために人間の中にある犠牲心を利用しようとする。

犠牲心は自分より下のもの、
弱いものに使うものであって、
上のものに使うものではない。

何かの結果から生じる現象というのはいつも同じではない。

俗にいう”奇跡”とは、
その現象がかなり低い確率で起こるだけのことであって、
それ以上でも、
それ以下でもない。


by. 桜井章一氏

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自分でも「どうしてそうなるのだろう?」
「何で死ななかったんだろう?」
と不思議に感じることはあるが、
それを自分の能力や才能だとは思わない。

ただ、その時々で感じる力を大切にしてきたことだけは事実である。

私は瞬間的に危険と間合いをとり、
僅かに動くことで危険を回避した。

奇跡とは現実離れした存在のように感じるかもしれないが、
実はほんの微妙な差が奇跡という事象を生み出しているのである。


by. 桜井章一氏

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私が験担ぎもジンクスも神頼みと対して変わらないと思う理由は、
それらがいずれも確率の話でしかないからである。

神頼みも験担ぎもジンクスも、
「思い込みがたまたま実現した」
という話に過ぎず、
そこに囚われて引きずってしまうのは時間と労力の無駄遣いである。

思い込みがいつも実現していたら、
「験担ぎ」という言葉も生まれていなかったに違いない。

験担ぎもジンクスもその通りになる確率など2割もないのではないだろうか。


by. 桜井章一氏

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験担ぎもジンクスもその通りになる確率など2割もないのではないだろうか。

「桃栗三年柿八年」
という言葉があるが、
何事も、成すにはそれなりの時間がかかるものだ。

でも人は悲しいことに、
待つことなく早く希望を成し遂げたい、
成就させたいと思ってしまう。

私の感じた違和感は予知能力ではない。


by. 桜井章一氏

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偶然の前の”必然”が心に引っかかってきたとでもいえばいいのだろうか。

人工的なものとは距離を置き、
自然を感じるようにしてきたからこそ、
多くの人が見逃してしまうことに気付けるのかもしれない。

「ツキがある」
「ツイている」
という状態は流れに乗った状態である。

流れに乗るまでは自分の力なのだが、
それ以降は自分以外の力によるところが大きい。


by. 桜井章一氏

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■「育てない」から上手くいく -講談社- 世間の価値観ではダメだとされることでも人はプラスのものにすることができるわけです。我慢と喜び...

だから人は流れに乗っている時、
「これは自分の力じゃない」
と感じるのだろう。

私が運やツキといったものを感じた時には
「おっ、あそこにいい流れがあるから乗ってみよう」
と行動を起こす。

いい風が吹いているからこのまま吹かれていよう。
なすがままでいよう。

物事がうまくいく時というのは、
そのような流れに自然に乗れている時である。


by. 桜井章一氏

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少なくとも私は今までそうやって生きてきた。

運やツキの流れは、
自然界の流れと同じで、
流れたり吹いたりしている時もあれば、
ピタリと止んでしまっている時もある。

流れがあるからといって闇雲にその流れに乗ったとしても、
それが悪い流れであればいい結果をもたらしてくれることはない。

運やツキの流れも、
こういった自然界の潮や風の流れとまったく同じである。


by. 桜井章一氏

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それがいい流れなのか、
悪い流れなのかが成否を分けるのだ。

私としては「気になったからちょっと触っただけ」。

だからなぜ私が触るとその人の体の調子がよくなるのかは、
自分でもまったく分からない。

ただ、自分がやりたい時にやるだけ、
やってあげたい時にやってあげているだけなのだ。


by. 桜井章一氏

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■人生を掃除する人 しない人 -東洋経済新報社- 無のことを頑張る。それがどこまでできるかというのが、大切なんだと思います。ただ、心を...

私は何事も「よいことをしよう」
と意気込んでやるのではなく、
「よかったね」
と思えることをしているだけなのだ。

分からない、
知らないからこそできるのだと思っている部分もある。

その人をひと目見れば調子の悪い部分が違和感として感じられる。

体に触れると
「ああ、やっぱりここだな」
というのが分かる。


by. 桜井章一氏

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今の人たちはいろんなところが張ってしまっている。

“頑張る”とは字の通り、
“頑張っている”状態である。

張っている状態は破れやすいし、
壊れやすい。

頑張っている人は筋肉が張ったり、
血管が張ったり、
いろんなところが張っているから私にとってはそれはとても
「嫌な感じ」
として伝わってくる。


by. 桜井章一氏

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一度張ったら緩めたり、
抜いてあげることはとても大切なことである。

深呼吸するように、
一度張ったらその後抜いてあげなければ、
心も体も休まる時がない。

このように、体の不調の原因は、
痛む箇所よりむしろそれ以外の場所にあることのほうが多い。

「この人、調子が悪そうだな」と思い、
その人に悪い箇所を聞くと、
その人の言っている場所ではなく、
違うところが膨らんで見えたりする。


by. 桜井章一氏

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■悪戯の流儀 -青春出版- 物事には必ず二面性がある。自分の行いを律し、善行を積み、"地運"をつけることだと俺は考えるが、いまの人たち...

その膨らみは普通の人が見ても気付かないような微妙な膨らみである。

しかしその膨らみを摩ってあげたりすると、
何かが流れるようになったのか、
「痛みが取れました」
ということになる。

知識や情報に限っては、
いいものも悪いものも自分の中に取っておこうとする。

そんなことを繰り返しているから、
体の循環が滞り、
いろんなところに支障をきたすようになるのだ。


by. 桜井章一氏

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私がこんなことをできるのは、
自分の中にある”調整する力”
が大きく関与しているのではないかと思う。

私が持っている力は特別な力ではない。

本来、誰もが持っていた力を私は失わず、
持ち続けているだけなのだ。

元々食欲もあるほうではなく、
不眠症気味ではあるのだが、
大勝負前は本当に飲まず食わず、
寝ずという生活。


by. 桜井章一氏

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そういう生活を一週間も続けていると普通の人ならフラフラになってしまうのだろうが、
私は自分の中の本能や五感が研ぎ澄まされていくのを感じていた。

そうやって体を極限の状態にすることで、
自分の中にある野生を解放していたのかもしれない。

私たちは日々、
この五感を使って生きているわけだが、
その五感をちゃんと使っている人はほとんどいない。

五感は体を動かすことでその力が磨かれていく。


by. 桜井章一氏

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