■修羅場が人を磨く -宝島社-
世の中には生まれてから死ぬまで、ずっとダメな人だっている。何も得られない、わずかな食料さえも得られないという人たちがたくさん存在する。「生まれたら壊れる」。それはこの世の宿命といえる
心が折れたとしても精神の扉を閉じてしまってはいけない。
たまには扉を開いて空気の入れ換えをしてやらなければ心の中は淀んでいくばかりである。
痛みを恐れず、
痛みを繰り返し経験していくことで、
人間は肉体的にも精神的にも強くなっていくのだ。
私から見れば
「散々いい思いをしたんだから、ダメになったらなったで、腹を括ってそれを受け入れるしかないだろ」
と思うのだが、
かつていい思いをした人たちというのは過去にすがりつき、
現状を受け入れられないようだ。
by. 桜井章一氏
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世の中には生まれてから死ぬまで、
ずっとダメな人だっている。
世界に目をやればそれはもっと顕著になる。
何も得られない、
わずかな食料さえも得られないという人たちがたくさん存在する。
いいところしか見ていなかったので、
いきなり何もないところに放り出されると、
どこを見たらいいのか分からない。
by. 桜井章一氏
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上に上がれば上がるほど、
または高ければ高いほど、
落ちた時の衝撃というのは大きい。
これは世のあらゆる物事がそうだといえる。
高いところにいた人が低い場所に落とされた時に、
なぜ衝撃が大きくなってしまうのか。
それは、高いところにいる時に低い場所を見ていなかったからである。
by. 桜井章一氏
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高い場所からの景色ばかりに見とれ、
自分の足元を見ていないから、
その土台が失われた時に転倒してしまうのだ。
高い場所にいる時でも足元を見ながら、
何か事があった時に備える。
さらに土台を失って転んだとしてもその責任は自分でしっかりとる。
調子のいい時こそ、
そうした心構えを忘れてはならない。
by. 桜井章一氏
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「トラブルを起こさないように」
と消極的な姿勢で生きるより、
たくさんのトラブルに触れ、
それを解決の方向へと導いたほうが人のためになるし、
生きている実感が得られる。
火を消すためには火のそばに行かなければならない。
だから、消防士となるためには相当な勇気と根性が必要とされるのである。
世間では「修羅場に巻き込まれる」
と言ったりするが、
「トラブルマンになりなさい」
ということは「修羅場に自分から飛び込んでいきなさい」
ということであって、
そういう心構えがあるだけでも、
修羅場の状況をいい方向へ変化させることができる。
by. 桜井章一氏
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既婚者が結婚を控えている人に向かって
「結婚は大変だよ」
と言うのもそれと似たようなもので、
大したことのないものをことさら大変に言う人は
「苦労病」にかかっているといっていい。
苦労病にかかっている人たちは、
大したことのないトラブルも修羅場にしてしまう。
自分に酔っているから修羅場にも酔うようになる。
人が「大変だ」ということほど、
「なんてことはない」「当たり前だ」
と捉える感覚が重要だ。
by. 桜井章一氏
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生死の懸かった場面になると、
人間の感覚というものは開放される。
それまで閉じていた感覚が開放され、
人間が本来持っていた五感がフルに働くようになるのである。
大一番の1週間くらい前から寝ず、
さらに飲まず食わずの生活。
普通の人ならフラフラになって歩くこともままならないような状態になるのかもしれないが、
私はその期間を経ることで自分の中の五感が覚醒し、
野性が目覚めるのを感じていた。
by. 桜井章一氏
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撮影スタッフがなぜ食事をとらないのか聞くと、
医師(ミャンマーで無料治療を行う日本人医師)はもう3日間、
食事をしていないと言う。
その理由は「感性を研ぎ澄ませておきたい。
手術をする患者の表層的な問題だけでなく、隠れている問題にも気付きたい。
その感覚がないと、患者は死んでしまう」
というものだった。
彼はそんな自問自答を繰り返しながら、
自らの感覚を覚醒させる術として絶食を選んだと思うのだ。
しかし、空腹の時間を伸ばしていくと、
見えない部分がどんどん見えてくるようになるのは事実である。
by. 桜井章一氏
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かくれんぼをしながら、
あるいは川で魚を捕まえながら、
私は視覚だけでなく、
五感を使って感じる力を養ってきた。
また、「絶対に捕まえてやる!」
という気力があるからといって捕まえられる問題でもない。
感覚を研ぎ澄ますのは、
一朝一夕にできるようになるものではないのだ。
野生動物と同じで、
人間も動物なのだから、
空腹になればなるほど獲物を捕らえようとする五感が鋭くなってくる。
by. 桜井章一氏
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それは我々の本能に埋め込まれているものなのだが、
現代人は「豊かさ」によってその本能を埋もれさせ、
まったく機能しないものにしてしまった。
本来人間が持っていたであろう五感を取り戻すには、
どうしたらよいのか。
その答えは、決してひとつではない。
そして修羅場をくぐり抜ける大きなヒントがそこに隠されているのである。
by. 桜井章一氏
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彼ら(山野井泰史・妙子夫妻)はきっとその修羅場の中で、
自然の美しさ、壮大さとともに、
人知の及ばぬその底知れぬ力を体感し、
自然との一体感を味わっているに違いない。
多分、彼らのように命懸けでなければ、
自然は人間を受け入れてはくれないのだ。
自然の起こす修羅場に比べれば、
人間界の修羅場などたかが知れている。
そして自然の起こす修羅場に身を置くと、
そこで初めて自然との一体感が味わえる。
by. 桜井章一氏
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私はそこにえも言われぬ快感を覚えるし、
だからこそ命を懸けて飽くなき挑戦を続ける冒険家、
登山家たちに憧れてしまうのである。
人は踏ん張って頑張って、その結果、
いろんなものを生産し、
形作っていく。
生産をし、利益を生む。
そういった関係が社会のいたるところにあるのが今の世の中である。
by. 桜井章一氏
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しかしそれら(欠けること)はいずれも当たり前のことだ。
何でも「あって当たり前」だと思っているから、
欠けた時の対処ができなくなってしまうのだ。
この世に生を受けた人間もいつか死ぬように、
生産されたものもいつか破壊される時がくる。
「生まれたら壊れる」。
それはこの世の宿命といえる。
by. 桜井章一氏
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人の命も生産されて生まれ、
やがて死という破壊がやってくる。
人はその生をつないでいる間にも、
さまざまなものを生み出し、形作り、
そしてそれらを壊し、失っていく。
一度手にしたものを失う時、
それが大切なものであればあるほど喪失感というものも大きくなる。
どうして喪失感というものを必要以上に引きずってしまうのか?
それは人だけにある
「過去・未来」という観念と
「欲」が関係しているような気がする。
by. 桜井章一氏
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