■修羅場が人を磨く -宝島社-
「楽しい」と感じるということは心に余裕があるということだ。つまり普段から遊ぶことを続けていれば心に余裕ができる。知識だけあっても人生に勝つことはできない
思い込みのような固定観念があると人はなかなか変化できなくなる。
固定観念というのは長い間かけてその人の中に蓄積されたものだから、
それをいきなり捨て去るということは難しい。
ただ、固定観念を薄めたり、
柔らかくしていくことはできる。
そうするためには、
自分の置かれている状況、
状態というのを的確につかんでいくことが重要である。
by. 桜井章一氏
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固定観念に曇った目ではなく、
素の状態でまわりを見渡せば、
景色もいつもちょっと違って見えるはずだ。
あなたのまわりに吹いている風はいつも同じではない。
さらに「周囲の状況を正しくつかむ」には、
相対感、全体感といったものを持つことも大切な要素となってくる。
「あなたがいて私がいる」
という公と私のバランス。
by. 桜井章一氏
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それがどちらかに偏らないように、
うまくバランスをコントロールしながらやっていくことが大切なのだ。
社会という「公」に苦しめられ、
精神のバランスを崩してしまっている。
会社や地域という「公」
の中で「私」を犠牲にし、
無理を続けていれば疲れは溜まる一方だ。
「もっと自分らしく生きたい」。
そんな風に感じているならば、
普段の生活の中に「私」
をもっと取り入れていけばいい。
by. 桜井章一氏
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「公」と「私」を行ったり来たりしながらうまくバランスをとり、
その場の状況、状態をしっかりつかんでいくことがとても大切なことであり、
それが修羅場を乗り越える力にもなるのである。
私にとって、
修羅場や逆境といったものは忌むべき存在ではなく、
自分を成長させてくれる好ましい存在だ。
修羅場が目の前に現れると
「お、来やがったな」と、
むしろその困難を乗り越えることに生き甲斐を感じてきた。
しかし、人は修羅場を経験することで確実に成長することができる。
by. 桜井章一氏
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それは前にも触れたように
「遊び心」にあると私は思っている。
遊びは楽しい。
「楽しい」と感じるということは心に余裕があるということだ。
逆に「苦しい」と感じるのは、
目の前のことに囚われ、
心に余裕がなくなっている証拠でもある。
by. 桜井章一氏
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つまり普段から遊ぶことを続けていれば心に余裕ができる。
幼い頃に遊びに夢中になったように、
大人になってもそれを続けていればいいのだ。
考えてみれば、
私の人生は遊びを続けることで成り立ってきた。
その一つひとつが私にとっては遊びである。
by. 桜井章一氏
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どれかひとつでも「仕事」と思ってしまったら、
多分途端にやる気を失ってしまうだろう。
だから、私が真面目な話をしたとしても、
そこにはどうしたって遊び心が入っている。
しかし、大人の遊びには私を引きつける、
夢中にさせるものは何もなかった。
私を夢中にさせるのは、
子どもの頃から慣れ親しんできた遊びなのだ。
by. 桜井章一氏
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私のまわりにいるのは、
子どものように「遊べる」仲間たちだけなのである。
子どもの遊び、
金のかからない遊びをしようと思うと、
そこに工夫が生まれる。
工夫を生み出すには創造力が必要となってくる。
与えられたもので遊ぶのではなく、
自分から遊びを生み出していく。
by. 桜井章一氏
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それが本物の遊びなのだ。
その人の内面が如実に表れるのが麻雀というゲームなのである。
本当の強さではなく、
上辺の強さだけ求めている人は、
麻雀も小手先だけの戦いになっている。
麻雀に知力は必要ないと言わないが、
あまりにバランスが偏りすぎると
「悪い麻雀」しかできなくなってしまう。
by. 桜井章一氏
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弱さを知識でカバーしようとすると、
人を出し抜こうとしたり、
裏をかこうとしたり、
どうしても麻雀が狡く、
卑怯なものになっていく。
そういった偏った麻雀、
悪い麻雀をする人は、
「どんな手を使っても勝てばいい」
と思っている。
しかし、「悪い麻雀」
で勝ったとしてもそれは
「悪い勝ち方」でしかない。
経済優先の社会では、
人より多く分捕ったものが
「勝ち」となる。
by. 桜井章一氏
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そんな「悪い勝ち」を得るために、
大人たちだけでなく子どもたちまでもが
「知」に頼った上辺だけのテクニックを磨いている。
麻雀は知識だけで間に合うようなゲームではない。
知識だけあっても人生に勝つことはできない。
修羅場を乗り越えるにはいくら知識があっても、
それだけでは間に合わないのである。
by. 桜井章一氏
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男には男として必要とされる強さがある。
それは「弱者を守ってやれる強さ」。
自分の身の回りにいる弱い人を守れないようなやつは男ではない。
そうはいっても今の時代、
一番守りたいのは「自分」
だったりするので、
「弱者を守る」という発想より、
「他から守ってもらいたい」
という思いを持っている人のほうが多いように思う。
そういった親は世間体だったり、
自分の立場だったり、
結局は自分を守ることしか考えていない。
by. 桜井章一氏
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要は無責任なのである。
「何かことが起こったら、それは自分の責任だ」、
そう思って生きていれば、
いろんなことに対して責任感が出てくる。
「弱者を守る」という発想も、
そういった責任感があれば自然と出てくる。
無責任な人たちはなぜ責任から逃げるのか?
by. 桜井章一氏
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それは自分で自分を守れない
「弱い人間」だからである。
自分を守るためには地位や名誉といったものが必要で、
それを手離したら自分が守れなくなる。
だから責任をとらない。
けれども、自分も守れないようなそんな弱い人間に、
修羅場をくぐり抜けることなどできるわけがない。
いいことだけでなく、
悪いこともすべてひっくるめて自分で責任をとる。
そういった感覚を持てる人に、
本当の強さは身についていくのである。
by. 桜井章一氏
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