■修羅場が人を磨く -宝島社-
私が物事を判断する上でひとつの基準としているのは、「勇気でやるのか」「卑怯な気持ちでやるのか」ということだ。すなわち悪いことに学んだ者ほど、修羅場に対する免疫は強くなるのである
自分のやっていることがいいことなのか、
悪いことなのか。
素直であればそれが瞬間的に分かるし、
悪いことであれば自らにストップをかけることもできる。
私が物事を判断する上でひとつの基準としているのは、
「勇気でやるのか」
「卑怯な気持ちでやるのか」
ということだ。
勇気を持ってやるのなら世の中で悪とされることでもいい。
by. 桜井章一氏
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世の中をあやふやな、
正体のない「善悪」
というもので判断しようとするから、
そこに狡さや卑怯さが入ってくることになる。
仮に「良い」とされることでも、
そこに卑怯さや狡い気持ちが少しでも入っているのであれば、
やるべきではないのだ。
勇気を持って、
あるいは度胸試しのような感覚があってやるのなら、
世間的には悪いとされることでもやっていい。
私はそういう感覚を持って生きてきた。
by. 桜井章一氏
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勇気や度胸というのは時としてみんなのためになる時がある。
私は正義感や道徳といったもので生きてきたわけではないのだ。
「勇気を持っていいことをする」時より、
「勇気を持って悪いことをする」
時のほうが本当の自分が出てくる。
装いの良心、装いの優しさ、
自分がよく見られたいがための好意。
by. 桜井章一氏
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「良いこと」には、
そんな偽善が入り込みやすいが、
「悪いこと」にはそういったことが入ってこない。
あくまでも「素」の自分との戦いなのである。
「いい子」になるように育てられ、
社会に出たら「どっかでいいことないかな」
と探し回っているのが現代社会に生きる人々の姿だ。
「自分に得をさせてくれるいい本はないかな」
「いいことを教えてくれる先生はいないかな」。
by. 桜井章一氏
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そんなことばかり考えているのは、
「いいこと病」にかかってしまっているからなのだ。
いいことを教えてくれる先生を見つけるくらいなら、
悪いことを教えてくれるやつのところに行って、
「自分ならやるのか、やらないのか」
ということを学ぶほうが余程人生のためになる。
「悪いことをまずは教われ」。
こんなことを言うやつは今の時代あまりいないと思うが、
私の人生を振り返ってみると、
そういった「悪いこと」
から学んだことのほうがはるかに多いのである。
by. 桜井章一氏
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修羅場というのは悪いことが凝縮された形で現れる。
すなわち悪いことに学んだ者ほど、
修羅場に対する免疫は強くなるのである。
多くの人たちにとってハンデやリスクなどは回避したいものなのだろうが、
私はハンデやリスクに面白さを感じ、
「不調の時こそ力の見せどころ」
だと思って生きてきた。
不調の時でも力を発揮できる人は、
修羅場にも当然強い。
by. 桜井章一氏
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しかし人間には、
いい時もあれば悪い時もある。
絶好調の自分に囚われてしまうと、
不調となった時に臨機応変な対応ができなくなってしまう。
スポーツの世界に限らず、
何事にもいえるのは
「不調の時にどれだけ力を発揮できるか」
ということなのだ。
私のようにハンデやリスクに面白さを感じられれば、
たとえ不調になったとしても慌てることなく対応することができる。
by. 桜井章一氏
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「不調こそ我が実力」と思えれば、
大抵の困難は克服することができるようになる。
「どういう動きをすれば痛みをカバーできるか」。
彼ら(イチロー、白鵬)の思考は常に前を向いている。
彼らは長年戦い続けてきた経験によって、
体のどこかに痛みを負った時でも勝負には負けない強さを身につけてきたのだ。
彼らがそういった強さを身につけることができたのは、
その道に命を懸けて臨んでいるからなのだと思う。
by. 桜井章一氏
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さらに「定まったこと」
ばかりの中で生きている人たちも、
パニックになりやすいと言える。
学問のできる人が優秀とされる今の社会は、
「答え」という定まったものがあり、
そこに人々は安心を感じている。
定まった状態が当たり前だと勘違いし、
その中で安穏としているから、
突発的なアクシデントなどが起こるとパニックになってしまうのだ。
自分でアクシデントを起こさないように気をつけていても、
この社会は自分以外の多くの人の存在、
つまり「自」と「他」で成り立っているわけだから、
他が起こしたアクシデントに巻き込まれることが往々にしてある。
by. 桜井章一氏
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実際にこの世の中は定まっているものより、
定まっていないもののほうが圧倒的に多い。
それなのに人々は定まっているものばかりを求める。
そして定まってないことが起こると不安な気持ちだけに囚われ、
そこに人間の弱さが出てきてしまうのだ。
人間関係ひとつとっても、
日々揺れ動いている。
by. 桜井章一氏
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しかし、ほとんどの人は嫌婚したらそれが
「定め」だと思い込んでいる。
だから定まっていないことが起こると必要以上に悩んだり、
苦しんだりすることになる。
私は結婚もしているし、
今では孫も幾人かいるが、
「結婚」というものに関しては常に
「定まっていないもの」
と思ってやってきた。
端から見たら分かりづらいかもしれないが、
私だって動じることはあるし、
だらしない時もある。
by. 桜井章一氏
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ただ、自分の中で
「まわりはダメでも自分だけはちゃんとしよう」
という感覚は常に持つようにしている。
大抵の場合、まわりがダメだと、
それに合わせるように自分自身も崩れてしまいがちだ。
けれども、まわりのそんな雰囲気に飲み込まれるのではなく、
「自分は自分」という立ち位置でいれば、
何事にも惑わされずに済む。
人間関係は「定まっていない」
ものの最たる存在だ。
by. 桜井章一氏
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だからこそ、人はその中でバランスをとって生きていかなければいけない。
誰かがマイナスとなっているならば、
自分はプラスとなりバランスをとる。
人間の関係の修羅場はこのプラス、
マイナスの関係が激しくバランスを崩した時に起きたりする。
「何でお前はそんなにマイナスなんだ!」
と相手を責める気持ちから抜きさしならない状況が出現してくる。
by. 桜井章一氏
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その前提として
「私がこれだけやったのだから、あなたはこれだけ返しなさい」
というイコール関係を求めているから、
人間関係のバランスが崩れるのだ。
私自身も「俺がこれだけやったのに、何であなたはやらないの?」
という考え方は一切ない。
だから変に他人を責める必要もなくなる。
そういう生き方をしていれば、
自分自身も楽になっていく。
by. 桜井章一氏
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