■雀鬼流 無敵の勝負論 -青春出版社-
後れを取ることは負けである。スピードの感覚が必要なのだ。むしろ思考や動作の無駄を省いたあとに残るものこそ、その人間の本当の個性なのである
ツモる時に牌をそれより(自分の手牌)手前に引くのは勇み足だ。
摸打も常に前でさばいていかなくてはならない。
またツモであれ打牌であれ、
牌は常に最短距離で動かしていく。
ツモる時には、
牌は山と手牌の右端を結んだ直線を移動するだけである。
by. 桜井章一氏
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切り出す牌も、
手牌の位置と河の打牌の位置を結んだ線を速やかに移動させる。
後れを取ることは負けである。
スピードの感覚が必要なのだ。
最短で動くということは無駄を排除することにもなる。
みなさんが勝負に負けてしまうのは、
そこに無駄な動作があるからなのである。
by. 桜井章一氏
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無駄な動作は無駄な思考を招くのだ。
しかし全員が同じような基本動作を身につけたからといって、
それで個性が変わるかといえばそんなことはない。
むしろ思考や動作の無駄を省いたあとに残るものこそ、
その人間の本当の個性なのである。
そんな、勝負の本質とはまったく関係ないものを個性と言いくるめているのが巷の麻雀の実態なのである。
by. 桜井章一氏
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麻雀はアガるためのゲームではない。
常に一歩先に進むゲームなのだ。
だからリーチがかかったらそれで手仕舞ではなく、
サンシャンテンをリャンシャンテン、
リャンシャンテンをイーシャンテンへと進めていく。
だからこそ相手の攻撃にもひるまず、
一歩でも前に出る。
それはまず彼(アイルトン・セナ)が車と一体化していたからだろうし、
変化にも対応できたからこそ、
そのギリギリの間隙を突くことが可能だったのだ。
by. 桜井章一氏
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勝負所というのは常にそういうもので、
ギリギリを乗り越えた時、
そこに運もついてくるのだ。
麻雀でいえば、
相手がテンパイする1巡前にその当たり牌を切っているようなケースがギリギリのいい切り方となる。
したがって相手の状態を測るには、
自分の必要な牌を相手がどんなタイミングで切っているかを見るのも有効な手だてである。
自分がテンパる1巡前に、
相手がそのアタリ牌を手放しているようなことが何度もあるようなら、
相手が自分のテンパイを見切ってそうしているわけではなくとも、
ツキは相手にあると見て取れるのだ。
by. 桜井章一氏
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ギリギリまで引っ張って紙一重の差で切っているところに、
勝負に臨む感覚の冴えが現れるのだ。
私は「心温かきは万能なり」など、
「万能」という言葉をよく使うが、
万能とは広がる感覚を持つことである。
勝負における見切りも一点に集中するのではなく、
意識が広がって全体に及ぶ中で生まれてくる。
麻雀とは常に変化していくゲームなのだ。
by. 桜井章一氏
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といいうことは、
麻雀に勝てるのは変化に敏感な者である。
部分にしか目がいかない人は、
変化を恐れがちである。
アガリも振り込みも、
麻雀には必ずある変化の一部だという感覚が持てない人は実に多い。
大切なことは変化を当然のこととして受け止め、
それに順応していく気持ちや振る舞いである。
by. 桜井章一氏
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だが山の天候も人間の気持ちも、
その時々で変化していくことに変わりはないのだ。
自然は厳しいもので、
刻々と姿を変化させている。
人間がこしらえた豊かで快適な文明社会は、
実は変化への対応ができなくなった社会なのである。
そのこと(変化は起きるのが当たり前)を実感できる人間は、
状態が悪くツキに見放されたような時でも、
いずれまた自分に流れが戻ることがあると考えられる。
by. 桜井章一氏
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人間は自然を失った偽物になってしまったのかもしれないが、
自然は本物である。
だから自然は変化し続ける。
そんな変化があればこそ、
人間も活性化されてきたのだ。
麻雀も、いかに卓上を生き生きとさせるかが大切なのに、
専門家やプロと称する人たちは卓上に死体を積み上げている。
by. 桜井章一氏
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人には鳴かせればいいのである。
人に鳴かれることで自分も鳴けるようになる。
人に振り込んでその相手がまた振り込んでいけば、
場が生き生きとしてくる。
現代のよどんだ人間の思考が持ち込まれるから、
麻雀もよどんだものになってしまうのだ。
配牌というのは人が生まれ落ちた環境のようなものだ。
by. 桜井章一氏
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しかしそこから始まるツモや手順は、
育つ人間が自ら切り開いていく自分の運命のようなものだ。
配牌がすごく悪くても、
しっかりと大切に打っていくことで大きな手に育つこともある。
そうやって手順がしっかりしていれば、
配牌だってよくなってくるものだ。
手順をおろそかにする、
また勝負の場から逃げたりオリたりしていれば、
配牌だってもっと悪くなってしまうのだ。
by. 桜井章一氏
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麻雀牌が、
たとえ生まれた環境が恵まれていなかったとしてもしっかり生きるんだぞと教えてくれているのである。
親のせいだとか学歴のせいだとかそんなことではなく、
自分の頑張りで運命を切り開いていくのである。
自分進む道を自分で選べるし、
作り上げていけるのが、
麻雀における手順なのである。
そこにわずかな可能性があれば、
人間にはいつでもやる気が起きてくるものなのだ。
by. 桜井章一氏
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それは(可能性の多さ)、私が
「ものごとは自分で切り開くんだ」
という感覚を強く持っていたからこそそうなったのだと思う。
麻雀でいえば、
たとえ配牌に恵まれなくても、
手順をしっかりすることでなんとかするんだという気持ちである。
麻雀では、いや麻雀に限らないのだが、
常に可能性を追求することが大切だ。
その可能性はアガリにだけ求めるのではない。
by. 桜井章一氏
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だが1巡ずつ回っていくことは全員にできる。
アガリの手前のイーシャンテンを目指す。
その手前のリャンシャンテンを目指す。
そんな気持ちが肝心なのだ。
それをすぐオリていたのでは、
可能性を捨てているようなものである。
私にとっては可能性の少ない配牌にこそやりがいが感じられる。
最悪の配牌の時こそ、
このどうにもならなさそうな手をどうするかと、
修正力や構成力の発揮しどころなのである。
by. 桜井章一氏
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