■雀鬼流 無敵の勝負論 -青春出版社-
麻雀の本質は変化を楽しむところにある。運とはアヤの変化であり良否なのである。そして楽な方より辛い方を仕上げた方が勝負運がつく。アヤに気づくには大ではなく小に対する感覚が大切だ
むしろシャンテン数が上がり、
テンパイに近づけば近づくほど可能性は狭まっていくものなのである。
そうなるともう私は面白くない。
難しい状況下では、
どう工夫してどこに手を加えていいのかが問われる。
それこそ打ち手に力をつけさせる源である。
by. 桜井章一氏
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それを、これは配牌が悪すぎるからダメだとか、
ラッキーな配牌に恵まれたから押してみようとか、
変化以前のスタートの状態で分けて考えてしまうような人間では、
いつまでたっても力はつかない。
悲観するのでも楽観するのでもなく、
可能性を楽しむという感覚が大切だ。
アガリたい、
振り込みたくないではなく、
可能性を楽しむのだ。
いちばん最初に医師になった人間は、
今の子どものような点数が取れるエリートでもビジネス感覚に長けた商売人でもなかったはずだ。
by. 桜井章一氏
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病気やケガで苦しんでいる人を助けようと、
その可能性に賭ける人だったはずである。
学校のテストの点の次は金を稼ぐことが目的になる。
金は確かに便利なものだが、
決して大切なものではない。
だが今の社会は、
大切さではなく便利さをひたすら追求し続けている。
by. 桜井章一氏
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本当の強さではなく、
安易な便利さを求める人の麻雀は、
やはり強さを生み出すことはない。
だから今の世の中の勝負では、
人として強い者が勝ちをおさめているわけではないのである。
麻雀の本質は変化を楽しむところにある。
人間それぞれに癖や性格があるように、
麻雀も動きの中に癖が現れてくる。
by. 桜井章一氏
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ただし麻雀では、
運が瞬間に変わったり消えたりなくなったりする。
その変化の中にアヤも存在する。
運とはアヤの変化であり良否なのである。
勝負所はチャンスより多く存在する。
厳しい中で必死に小さな抜け道を発見したような状況が勝負所の一つである。
by. 桜井章一氏
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そして楽な方より辛い方を仕上げた方が勝負運がつく。
勝負所を見落としたりそこでミスしたりすれば、
それは負けにつながる。
アヤというのは癖なのである。
人間には癖がある。
人間ばかりではなく機械や動物にも癖や習性がある。
by. 桜井章一氏
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それを個性といってもいいのかもしれない。
人間の個性や癖と同じで、
アヤも同じようなことが何度も続いたり、
スッと消えたりするものだ。
空を見ていても、
雲が流れて日光を遮ることもあれば、
その雲がいつのまにか消えてしまうこともある。
その変化に気づいていれば、
雲が厚すぎるときは雨具を持って出かけようとか、
直射日光が厳しいときには日陰で辛抱強く耐えようとか、
適切な判断や準備ができるものである。
by. 桜井章一氏
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ドラを中心に麻雀が動いていくのだから当然だといえるだろう。
何ごとも何かを中心にして動くものなのだ。
それ(各自が出す癖)は麻雀でも同様で、
摸打の中に人間の癖は必ず現れる。
アヤに気づくには大ではなく小に対する感覚が大切だ。
by. 桜井章一氏
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小さいものや小さな変化に気づく人間はアヤを感じ取ることができるのだ。
大きな夢を持ちましょうとか、
大きな権力に近づきたいとか、
大きなものを志向する人間は小さなものを見落としてしまう。
そうすると微妙な変化やアヤに気づくこともないのである。
社会が経済的に豊かになると、
全体の傾向として大きなものに目がいくようになる。
by. 桜井章一氏
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そんな社会の豊かさは人間の心を豊かにする本当の豊かさではなく、
妄想の豊かさに過ぎないからである。
アヤを感じ取れない人々が心を売って金儲けに走るのが文明社会の本質なのである。
壊れた心を修理するのが私の役どころのようである。
私は訪れてくる子に潜む壊れに気づくからこそ、
その人間のそのものを感じるからこそ、
どこが壊れてるんだろうと修理にかかる。
by. 桜井章一氏
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雀鬼流におけるペナルティというのは人さまに迷惑をかけていることに気づかせるきっかけである。
部分に捕らわれていれば病になってしまう。
雀鬼流麻雀に間に合うためにはスピードは絶対不可欠なのだからそんなことは不可能である。
そもそも勝負における変化は常に瞬間的なものなのだから、
瞬間に間に合わない者は勝負の場にも立てないということになってしまうのだ。
by. 桜井章一氏
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人間は、瞬間の動作の中にこそ誠実さが現れる。
ものごとを瞬時にやってくれるのは誠実な人である。
あれこれ考えているうちに、
人の行動には嘘や打算や損得勘定が入り込んでくるのだ。
ものごとが始まる前から自分が見られていて、
私がいないところで何をしているかも見抜かれている。
人間の視力で見ることができる範囲は限られている。
by. 桜井章一氏
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いや、視野に入っていたところで、
対象の本質を的確に捉えているかどうかは極めて疑わしい。
麻雀というゲームは見えない部分を見るゲームだ。
見えないものに勘を働かせなければならなかったからこそ、
私には見なくてもわかる力が備わったのである。
普段から間合いをとって的を外さない生き方をしていれば、
明るい場所だけでなく、
暗闇の中にある的も見えるようになるものだ。
by. 桜井章一氏
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嘘が通ってしまうようではしょうがないのだ。
勝負における偶然性というが、
私に言わせれば偶然もよく見れば必然なのである。
まったくの偶然によって生じる状況など、
実は存在しない。
勝負における偶然と思われることも、
ごく小さなことも見落とさない人間にとって決して偶然ではない。
by. 桜井章一氏
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